1823年(文政6年)10月、先祖の助次郎(六所宮神領百姓)が、「新規水車稼願書」をお上に提出し(※)、以降、昭和の始めまで現在の東京競馬場の前を流れていた根岸川(ねいし川≒市川用水の支流?)で水車を回してお米を搗いたり、粉を挽いたりしていました。
大正13年、祖父が本家から独立して米屋を開業。現在、三代目です。水車小屋は、ハケ(崖線)下にありましたが、その上のお山が天神山。今、小金井街道から競馬場に降りる坂がその山の中を突っ切っています。そして、水車小屋のあたりが天神下と呼ばれ、それが転じて(天神下→てんぢした→てんぢ→てんち)天地と呼ばれていたことから、屋号が「天地」となりました。
市内に「天地」という屋号を持つ米屋等が数軒ありますが、皆親戚や暖簾分けの店です。
(※)江戸時代に武蔵総社六所宮(現:大国魂神社)のそば、旧甲州街道沿いに「四人部屋」という旅篭がありました。経営者は野村家。1700年代、江戸の文人・趣味人と交流のあった野村瓜州という当主がいました。
そして、何故かこの野村家の位牌を、明治以降、当店の本家が預かっていました。当家と野村家の関係が不明でしたが、やっと糸口が見つかりました。上記の「新規水車稼願書」の内容が判明し、その中で、野村瓜州の養子「彦六」が「助次郎」の親として、また当家の先祖「万右衛門(名跡)」が、親戚という立場で連名にて署名していることがわかりました。この時点(1823年)で野村家と当家が親戚関係にあったことが判明しました。助次郎は、結局、当家の養子に出されたか、婿に出されたか・・・。
その後、野村家の直系は府中を出ていき、助次郎の子孫の当店本家が位牌を預かった、こう考えられます。